ワシは守護長尾為景の末子として享禄3年(1530)1月21日に生まれた。
寅年生まれの為、幼名は虎千代。元服して景虎と名乗った。
ワシが生まれた当時、越後は争乱の中にあった。守護・
上杉定実公の生家、上条城主・上条定憲が豪族達を結集し、父長尾為景と各地で戦っておったのじゃ。
母御は栖吉城主(長岡市)長尾顕吉の娘、
虎御前(青岩院)である。

ワシが4歳の時、居多神社が上条軍により焼失。7歳の時には、春日山城と指呼の間にある三分一原で父者と上条軍が合戦するなど、ワシは生まれついての戦乱の申し子であった。

合戦に明け暮れていた父者の影響が大きかったのやもしれぬが、ワシは幼少の頃より、一間四方ほどある城の模型で、城攻め遊びをするのが好きじゃった。
一方で観音菩薩の信者であった母御のもとで育った事で、慈悲深き心も持つ少年に成長致すことも出来た。

さらにワシの文武両道を育んだのは、春日山城下の林泉寺名僧・
天室光育禅師であった。
禅師の厳しい指導が、ワシの人格形成に大きな影響を与えた。

 ワシが出家し林泉寺に入った天文5年8月、7歳の時。父者は守護代長尾家の家督を我が兄
晴景に譲り、同12月24日戦雲漂う渦中で病死してしもうた。
父者が軍配をもって君臨すること20年、これといった矛盾や落度が無かったにも関わらず、父者が逝去されたのを聞きつけた狂徒共は、すぐさま城下まで迫ってきた。そのためワシも、幼少ながら甲冑を着して葬儀に参列するというような異常事態であった。まったくもって厳しい越後情勢で御座ったわい。

家督を継いだ兄
晴景ではあったが、周りの評判は決して芳しいものではなかった。
ご病弱の上に、どうも武将としての器量に欠けていると家臣等は揺れておった。
生き残りを賭けた過酷な戦国時代にあって、長たる者がこれでは困るとの不満も高まっていった。

中条藤資本庄房長色部勝長等の揚北衆は命令に従わず、春日山への出仕もしない。この時代、まだまだ国人衆の力は強く、完全なる主従関係ではなかったのじゃ。
日に日に不穏な空気が春日山を覆っていったのぅ。

この動きをいち早く察知致したのが、栃尾城城代・
本庄実乃じゃった。
実乃の訴えで、ワシは兄者から三条城へ出向を命ぜられた。予の役目は、中郡(中越地方)の守護代長尾家領の確保と揚北衆の牽制であった。
ここに、ワシが林泉寺で過ごす平和な時は終わり、否応なしに戦国の真っ只中に出て行かざるを得なくなったのである。

 天文12年、14歳のワシは三条城に入城した。ちなみに、以後ワシの宿敵となる
武田信玄は23歳、信濃経略の第一歩を踏み出した頃である。
三条城から更に栃尾城に移ったワシは、まず守門神社に国内安全の祈願を込めて社領を寄進。
雪が消えると近隣の土豪が攻撃を仕掛けてきたが、これを撃退。「代々の軍功をもって諸国に於いて大利を得、凶徒を討つことその数を知らず」と後に述懐しておる通り、大変な事態であった。

初陣は見事に飾ったものの、ワシの四囲は常に敵を控えておった。そのワシを助けたのは、栃尾の
本庄実乃、三条の山吉行盛、母御の御実家栖吉城主・長尾氏等であった。

晴景がワシの力を頼りながら近隣の敵を破り、一息ついた天文14年10月、今度は上杉家の老臣・黒田和泉守秀忠が、己の兄景康を殺して反旗を翻した。
黒田は次第に力をつける我ら長尾家に対し、守護上杉家の老臣として許せぬ思いであったのだろうか。ワシは【家国の瑕瑾】、家の一大事と憂い、腹心を従えて馳せ参じた。討伐に向かったワシに対し秀忠は「僧となり他国へ行くので、命だけは助けてくれ」と情けなくも嘆願致した。ワシはこれを許し、意気揚々と凱旋致した。

だが天文15年2月、またしても
秀忠は黒滝城に立て篭もった。
ワシは守護・
上杉定実の命により黒滝城へ出撃致し、黒田一族をことごとく切腹させた。
これにより、僅かではあるが
長尾家を再興致す事が出来たのじゃ。

 しかしながら次は、兄の
晴景と争わねばならなくなってしまう。
ワシの叔父・
高梨政頼、揚北の中条藤資、栖吉の長尾景信等が、病弱な兄者に代わり、ワシを守護代に擁立すべく企図しておったからじゃ。
晴景は義弟・上田長尾政景黒川清実等の援助を受け、ワシと戦う決意をする。

しかし、
上杉定実公の必死の説得により、ワシを兄晴景の養子とし守護代長尾家を相続させる和解案を兄晴景は承諾。天文17年12月晦日、春日山城にて父子の義を結び、この問題に決着はついた。
ワシが19歳の時であった。

 2年後の天文19年2月26日、守護・
上杉定実公が御逝去。
定実公に嗣子は無く、ここに越後上杉家は断絶してしまった。定実公逝去の二日後、ワシは将軍足利義輝公より、白傘袋と毛氈の鞍覆いの使用を許され、国主大名の待遇が与えられた。

地盤を固めたといっても、反対勢力もまだまだ存在しておった。
まずは、ワシが
守護代長尾家を相続したことで影の薄くなった坂戸城主・長尾政景である。
上田長尾家は、府内(守護代長尾家)、古志(栖吉)、三条(三条城)長尾家と共に、越後四長尾家の一つである。
上田長尾家は魚沼盆地の中心、南魚沼郡六日町の坂戸城を本拠としており、兄
晴景とワシの不和の際、政景はあくまでも兄晴景を支援していた。更には、母御のご実家である栖吉長尾家の勢力が増大したことで、同じ長尾一族の中で相対的に力が衰えていった
しかしながら
政景はその立場を理解せず、ワシを軽んじ、春日山城からの命令を無視することがしばしばであった。

そして天文18年(1549)6月、
政景が叛いたという風聞が流れた。そんな時、宇佐美定満の琵琶島城に火を放とうとした者があった。定満は同月5日稗生城主・平子孫太郎に、政景の侵入に備えて居城周辺を警戒した方がよいのではないかと進言。
政景は、かつての同志宇佐美平子などがワシに帰属したのを快く思わず、付近の農民にけしかけて放火させようとしておったようじゃ。

更に
政景は、栖吉城主長尾家に対抗する為に、天文18年9月、穴澤新右衛門尉に北魚沼郡入広瀬村の土地税を免除させ、軍備費にあてさせるなどしておった。

そんな状況の中、12月、遂に
政景は動いた。
28日、ワシは合戦の前に会津の
芦名盛氏の家臣・松本右京亮
政景謀反を報じた。芦名盛氏政景に加担する可能性があったため、両家の旧交を温めるが肝要と考えての事じゃ。
そして天文20年1月15日、
政景方の発智右馬亮長芳の根拠地・北魚沼郡広神村を襲撃。
発智危機を知った同郡入広瀬村の金子尚綱は、同日、発智を救援するために出陣していたようだったが、それは発智の母や妻、息子などが人質として春日山城に送られた後であった
さらに24日にも雪中再び
発智の拠点を襲撃致したが、残念ながらこの時は決定的な打撃は与えられなかった。

劣勢を悟った長尾房長政景父子は、春以来ワシに和平を申し入れておったが、8月1日坂戸城総攻撃を平子に通告致した。ワシの奇襲を察知した上田勢は仰天し、房長はすぐに誓詞を送って降伏を願い出てきおった。当初は許す気持ちなど無かったが、我が姉・仙洞院政景に嫁いでおる事や、老臣達の切なる助命嘆願などもあり、これを承諾。
これにより、ワシが家督相続致し時よりくすぶっておった
長尾家家中の反目を、ようやく取り除くことが出来たのじゃ。


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参考引用文献「学研 歴史群像シリーズG 上杉謙信」