毘
猛龍上杉軍団
直江 景綱
越後三島郡・与板城主、大和守。謙信公から最も信頼されていた重臣の一人である。
はじめ、与兵衛尉実綱を名乗ったが、永禄五年(1562)ごろ、謙信公(長尾景虎)より一字を与えられて、大和守景綱と改めた。
年齢は謙信公を上回ること二十余歳、謙信公の父長尾為景の頃からの家臣であり、謙信公の兄長尾晴景にも仕えた。「旗本之者共」と呼んだ譜代家臣団の第一人者であり、晴景の代から内政に重きをなしていたようである。
晴景は病弱であり、武将としての器量不足の為、家臣団から謙信公擁立の話が出てくると、景綱も率先してこれに加わり、晴景の隠居及び謙信公の家督相続を実現。以後、大熊朝秀や本庄実乃などと共に謙信公側近として政権の中枢にあり、内政、外交、軍事などの全般にわたり主導的な立場となり活躍する。
永禄二年(1559)の謙信公御上洛の折には、外交使節団として先遣された神余親綱を助け、朝廷、幕府のあいだに周旋した。翌永禄三年(1560)、関白近衛前嗣が謙信公を頼って越後に来訪した際、その接待にあたったのも景綱であった。現職関白が他国に長期滞在したのは、史上初めてのことという。
永禄一二年(1569)信玄の動向に備えて、北条氏との「越相同盟」にあたり、小田原使節団との折衝を担当したのも景綱であった。それまで犬猿の仲であった越後と相模の折衝という事で、大変であったであろう。
謙信公の度重なる「義の戦」関東出陣に於いては、動員兵の差配、春日山城の留守居役を担当したり、有名な永禄四年(1561)第四回川中島合戦では、上杉軍の戦闘を小荷駄隊2000として援助し、ついで信玄嫡男義信の一隊に攻めかかり敗走させた。
没年は天正五年(1577)。翌年に謙信公も急死されるが、謙信公の枕頭に伺候して遺言を聞きとったのは景綱の未亡人であったという。この事をもってしても、景綱がどれほど謙信公の内奥に関わっていたかがよく分かる。
柿崎 景家
和泉守。上杉軍団主力の国人グループは、阿賀北衆と、中郡・上郡を本拠として早期に上杉氏に従属した諸将とに大別され、景家は後者の一員である。天文年間(1532~54)上条上杉氏の乱に際して、柿崎景家は長尾為景に属して戦功をたて、柿崎一族の惣領となり和泉守を称した。猿毛城を詰城として、平時は木崎城(城崎城)。この両城のうち、特に猿毛城は下越と上越の喉元を扼する要所であった。為景没後に越後国主の座に就いた上杉謙信の側近くに仕え、春日山城に屋敷も賜った。
永禄の初年(1558)以来、内政に関わるようになり、永禄三年(1560)、謙信公が領内の諸役・地子ほかを五年間免除するという思い切った政令を発した時、宿老の斎藤朝信らと共に奉行として、その施行に携わっていた。
だが景家の本領は、内政家かというよりも勇猛果敢な武将という点にある。
景家の剛勇ぶりは、越後諸将に並ぶもののなしと称えられた。七手組の旗頭となって常に先陣を務め、その名は遠く中国地方まで轟いたといわれる。
史上名高い、永禄四年(1561)第四回川中島合戦の際、景家はやはり先陣を命じられ妻女山を一気に駆け下ると、朝霧の八幡原の信玄本営に攻めかかり、華々しい成果をあげた。
猛将景家ならではの大局観がよく示されているエピソードとして、越中攻めの際、景家は国境の城攻略を命じられた。戦いの最中、大川十郎という家来が、左腕を矢で射抜かれながらなお臆する事なく敵兵と渡り合い、首級を挙げて景家の前に駆け寄ってきた。すると景家は褒めるどころか、「いまや合戦は、たけなわである。首の一つや二つ取ったといって、わざわざ見参に及ぶのは見苦しい功名であろう、急ぎ合戦の場に立ち帰れ」と、逆に声を荒げて叱りつけたという。
功名手柄の評価は戦後のことであり、合戦の最中はとにかく勝利を確実にするよう心がけるべきであるという事だ。
永禄三年の関東出兵にも従い小田原北条氏攻めに活躍し、翌永禄四年閏三月、上杉憲政より関東管領を譲られた謙信公が鎌倉鶴岡八幡宮社前に晴れ晴れしく就任式をあげた折にも、直江、斎藤らの重臣共々社前への行列に供奉した。
景家は天正二年(1574)没とされているが、『上杉家年譜』には、天正五年11月織田信長に内通した疑いで景家父子が謙信公に滅ぼされ、弟三四郎が召し出されて家督を継いだとある。しかし、天正三(1575)年の『上杉家軍役帳』や、同五年十二月『上杉家中名字尽手本』には息晴家の名が記され、系図は晴家の没年を天正六年(1578)とする。さらに同年八月景家の遺児、憲家に名跡復活が認められたことも事実であることから、景家父子誅伐の年代や事実そのものも疑問がある。
謙信公の死因が、夜な夜な枕辺に景家が現れ、無実の罪を訴える景家の亡霊の祟りであるとの所伝もある。
斎藤 朝信
越後刈羽郡・赤田城主、下野守。その人となりは勤倹で、部下を愛し、民に情けをかけたので、領内はよく治まったという。
永禄二年(1559)朝信は長尾藤景・柿崎景家・北条高広と連署して景虎の命令を執行している。朝信ら四名は謙信政権下の政務奉行を務め、軍制上では七手組の隊頭でもあった。七手組の隊頭は四名のほかに、直江景綱・本庄慶秀・中条藤資であり、錚々たる武将ばかりであった。のちに、上条政繁・北条景広・柿崎景家・斎藤朝信・山本寺定景・竹俣慶綱・本庄繁長に定められ、上条・北条・柿崎、そして斎藤朝信の四名は奉行職を兼務した。1575年の『上杉氏軍役帳』には軍役負担二百十三人とある。
永禄三年(1560)、謙信公が発した五ヵ年間の租税免除令の施行を掌るなど、内政に参画するかたわら軍陣でも勇猛さを発揮し、世人から【越後の鐘馗】と仇名された。謙信公の二度の越中攻めや下野佐野城攻めにも出陣。
永禄四年(1561)第四回川中島合戦では、信玄と連携して越後に攻め込む気配を示していた一向一揆に備える為、山本寺定長と共に越中へ押し出し、主力の川中島移動を側面から助けた。
武将としての勇猛ぶりはもとより、内政面にも有能ぶりを発揮した。武骨者の多い上杉軍団の中にあって頼もしい存在であった。敵城奪取後、謙信公が決まってその城将に朝信を任命したことは政軍事の両面をこなす朝信の才を見込んでの人事であったろう。
謙信公御臨終後に起った家督争いの【御館の乱】では景勝方に属して活躍、北条氏出身の景虎一派の野望を粉砕した。
急成長する織田軍と対抗するべく、武田家との同盟実現のために奔走、天正九年(1581)から越後侵攻をはじめた織田軍大将、柴田勝家を越中魚津城で迎え撃ち、翌天正十年には武田攻めの為に東進してくる織田勢に備えて信州に出陣し、川中島の要衝海津城を守った。没年は天正末年と伝えられえるが、詳細は不明である。
中条 藤資
北蒲原郡奥山・鳥坂山城主、越前守、弾正左衛門尉。三浦和田氏流。
揚北衆(阿賀野川以北の武将)筆頭として、大きな力をもっていた。
永正四年(1507)長尾為景が上杉房能を殺して顕定と戦うと、為景に合力。本庄房長、色部昌長らと戦い、色部氏の平林城を攻略。永正の乱でも為景に属し、その勝利に貢献した。しかし、享禄・天文の乱では為景と対立。
天文七年、守護上杉定実の養子問題をめぐり、藤資は自分の妹と伊達稙宗の間に生まれた時示丸を養子に送り込むことを画策したが、黒川氏をはじめ色部氏、本庄氏など揚北衆の殆どが反対し、養子の策は失敗した。
謙信公守護代擁立には高梨政頼、長尾景信等と共に積極的に参加し、これを実現。
永禄二年(1559)の「侍衆御太刀之次第」に、藤資は披露太刀の衆(国人衆)として名前を連ねている。
永禄四年(1561)80余歳で第四回川中島合戦にも参陣し、獅子奮迅の働きで謙信公より感状をうけた。
永禄十一年(1568)3月、本庄城主・本庄繁長が信玄の誘いにのり、謙信公に叛くと、それを知った藤資は、いち早く謙信公に「本庄謀反」を通報。繁長からの誘いの密書をそのまま謙信公に差し出し、謙信公本庄城攻撃に参陣。没年は天正二年(1574)とされる。
藤資の死後は謙信公の御計らいにより、藤資の娘に吉江景資の次男景泰を娶わせ中条氏を継がせた。景泰は天正六年(1578)、「御館の乱」では景勝に属し、天正九年から越中魚津城在番。織田軍の柴田勝家と戦い、天正十年6月3日落城、切腹。
色部 勝長
岩船郡神林葛籠山・平林城主、修理亮。揚北衆(阿賀野川以北の武将)の一人。
色部氏は秩父為長を祖とする。為長は源頼朝から小泉庄色部条の地頭職に補任された。以後16代400年間という長きにわたり、平林城を本拠地として勢力を張った。
独立心の強い揚北衆は、上杉氏に叛く者が多かった。その中ではかなり上杉氏に忠節を尽くした臣といえよう。
天文四年(1535)の上条再乱で上条方についたがその後、長尾為景方に転じた。天文八年(1539)、中条藤資らが守護上杉定実の養子に伊達稙宗の子・時宗丸を迎えようとした時、他の揚北衆を糾号してこれに対抗し、阻止。
弘治三年(1557)、信玄が北信濃に侵入し葛山城に攻めかかった時、勝長は謙信公より懇切な手紙をもって救援の出陣を求められた。だが、勝長が出陣したかどうかは不明であり、葛山城もほどなく落城している。「侍衆御太刀之次第」では披露太刀の衆(国人衆)として名前を連ねている。
永禄四年(1561)第四回川中島合戦では、先陣の柿崎景家が崩れかかったところへ駆けつけ、武田方の飯富兵部らの赤備えを蹴散らし敗走させた。そして謙信公より「血染の感状」を賜る。
「去る十日信州河中島に於て、武田晴信に対し、一戦を遂ぐるの刻、
粉骨比類無く候。殊に親類被官等手飼之者、餘多これを討たせ、
稼ぎを励まさるるに依り、兇徒千騎討ち捕り、大利を得候事、
年来の本望を達し、又面々の名誉、此の忠功政虎一世中忘失すべからず候。
いよいよ相嗜まれ、忠節を抽んでらるること簡要に候。謹言」
この感状は現存する。
永禄七年(1564)、上野・佐野城に佐野昌綱を攻め、同城を預かる。
永禄十一年(1568)本庄繁長が信玄に内通しまたも叛くと、謙信公に従って本庄城を功囲。
翌十二年(1569)1月9日、本庄繁長の夜襲があり多くの死傷者を出したといわれているが、この戦闘で勝長は討死。謙信公は勝長の死を非常に惜しんだといわれている。子に顕長、長実があり、共に勝長の遺志を重んじて謙信公に忠勤を励んだ。
勝長亡き後、嫡子・弥三郎が家督相続し、謙信から顕長の名を与えられている。
元亀二年の本庄繁長攻めに功を挙げ、天正四年(1576)頃、家督を弟長実に譲っている。1587年没。
長実は、はじめ惣七郎と称したが、永禄九年(1566)に兄顕長から長実の名を賜る。「御館の乱」では景勝方に属し、天正八(1580)年には石船神社を再建。
天正十六年(1588)、景勝上洛の際は同伴して従五位下修理大夫に補せられ、同十八年、秀吉に出羽仙北一揆平定を命じられると、大谷吉継配下で一揆勢と戦い、出羽大森城に在城。
文禄元年(1592)、朝鮮文禄の役に参陣するも、病にて京都に戻り死去。
上条 政繁
刈羽郡鵜川荘・上条(黒滝)城主。上条氏はもと越後守護職上杉氏の一門で、刈羽郡鵜川荘上条領主であった。政繁は、能登守護の七尾城主畠山義続の次男。19歳の時人質として越後に赴くが、謙信公の養子となり、1571年上条家に入嗣、弥五郎政繁と改名する。
妻は上杉景勝の妹。
永禄二年(1559)、謙信公御上洛に従い、永禄四年(1561)第四回川中島合戦では春日山を守備。
元亀年間は上州にあって、陣代としても関東経略に力を注ぐ。天正元年(1572)には越中に転じ、翌二年また関東に出陣する。
天正三年(1575)の『上杉氏軍役帳』によれば、上杉家一門としては四位で軍役96名とある。一位は上杉景勝で軍役375名、二位が村上国清で軍役250名、三位が琵琶嶋弥七郎で軍役156名である。謙信公御逝去後、「御館の乱」では景勝方につき、よく戦った。
天正十年(1582)春、織田軍の攻囲により厳しい状況にある越中救援の為、織田信長と結ぶ新発田重家の説得にあたっている。また、織田軍の部将森長可が関山周辺まで進撃の際、この防戦にあたった。天正十一年(1583)には景勝の信濃諸将統括の任にあたり景勝を支え、同年、景勝の命により松倉城から海津城に移る。
天正十四年(1586)7月、信州統治をめぐって景勝と対立し、翌年上方へ出奔。
関ヶ原の合戦で東軍家康に属し、戦後本姓畠山に復した。後年大坂城に入り、片桐且元と共に大坂城出奔をした説、江戸に居住し同地で没した説、上杉家に帰参した説などあり。
1625年没。
新発田重家
北蒲原郡加地荘・五十公野城主、のち新発田城主、因幡守。
佐々木加地氏の末裔で伯耆守綱貞の子、長敦の弟。はじめ北蒲原郡加地荘新発田五十公野城主五十公野家を継ぎ、五十公野源太と称したが、後治長と改名。1580年、長敦の病没により、新発田家を相続、新発田城主となる。
兄の新発田長敦は春日山城門番を務め、内政外交に力を発揮し上杉軍の中でも重要な重きをなしていた。天正三年(1575)上杉軍役帳には鑓135とあり、9位に位置している。
天正六年(1578)の『御館の乱』では、兄とともに景勝方につき武功面で華々しく活躍、景勝方を勝利に導いた。しかし景勝は、戦国を更に強く生き抜く為に上杉家一枚岩の団結を望み譜代・旗本衆を遇し、揚北や他の国人衆達を遇せず、重家等を恩賞から外した。天正七年(1579)兄新発田長敦が没っすると、重家が新発田家を継いだ。景勝が重家の働きに報いて、新発田家の名跡継承を許したとされているが、それだけでは重家の気持ちは収まらなかったのかもしれない。結果、重家は織田信長に通じ、景勝に叛旗を翻す事になる。
天正十年(1582)3月、織田信長が天目山にて武田家を滅亡させ、いよいよ越後に迫ってきた。関東から滝川勢、信州から森勢が越後に乱入し、春日山防備に手一杯の景勝に対し、重家は水原、下条などの城に攻撃をしかけ、景勝を追い詰めた。しかし天正十年(1582)6月、織田信長が本能寺で没してしまい、形勢逆転。
本能寺の変以降、景勝はまず信州、越中の回復に全力を注いだ。領地回復を終えた景勝は、すぐさま重家討伐の軍を起こした。しかし自軍の軍律の乱れなどで重家軍を壊滅させること叶わず撤退。重家は、ここぞとばかりに激しく追撃を開始し、菅名但馬守を始め多くの武将を討ち取る。景勝軍完敗、新発田重家軍完勝といえる程の戦であった。
天正十四年(1586)8月、豊臣政権を固めていた秀吉から木村吉清を軍監として派遣され、天下統一戦の大儀を得た景勝は、重家討伐の兵を挙げる。重家は、水原城、加治城を景勝に落とされ、遂に天正十五年(1587)10月、新発田城とともに果てた。
本庄 実乃
越後古志郡・栃尾城主、新左衛門尉。入道して宗緩と号した。
謙信公御歳14歳のとき、林泉寺を出て兄晴景の越後平定を助けることになるが、その時本拠とした栃尾城の城代を勤めていたのが本庄実乃である。
以後、実乃は謙信公と軍事行動をともにし、やがて晴景に代えて謙信公を擁立しようとする動きが起こると、その実現の為に奔走した。
天文十七年(1548)12月30日、謙信公が守護代長尾家を相続して、春日山に入城を果たしたのちは、謙信公に従って春日山に移り、直江景綱、大熊朝秀らと謙信公政権の中枢を構成した。
天文十八年(1549)、のちに関東管領職を謙信公に譲り渡す上杉憲政が越後に救援を求めてきた時には、仲介の労をとった。
しかし天文二十三年(1554)頃より、訴訟問題をめぐって大熊朝秀が対立をきたし、政権内部のいざこざに嫌気がさした謙信公が出家を宣言するという騒ぎに発展した。結局、この政争は実乃と直江景綱ラインの勝利に帰し、謙信公も出家を思いとどまったが、敗れた大熊朝秀は武田陣営に出奔することになる。
永禄二年(1559)の「侍衆御太刀之次第」、天正三年(1575)の「上杉家軍役帳」には栃尾城主本庄秀綱が名を連ねている。
実乃の没年は不詳。その子秀綱は、謙信公の死後に生じた上杉家の家督争いで、小田原北条氏出身の景虎に属し、敗れて会津に逃れた。その為、栃尾城本庄氏はここに滅亡する。
本庄 繁長
越後岩船郡・本庄(村上)城主、越前守。揚北衆(阿賀野川以北の武将)の一人である。
繁長は少年時代を城で暮らすことが出来なかった。彼が母親の胎内にあるときに、城を乗っ取られたからである。乗っ取ったのは父房長の弟小川長資。繁長の叔父である。譜代の家人にかくまわれて育ち、天文二十年(1551)齢13歳のとき、一族の後援を得て城を奪回し、叔父長資を討った。「幼少の頃より気性剛強」と軍記書の多くが記している。
永禄元年(1558)、繁長は謙信公に謁して帰属を誓い、以来、上杉軍団の一翼を担って、越中、信濃、関東に転戦することになる。
「上杉将士書上」等によると、有名な永禄四年の川中島合戦の際、繁長は自ら太刀をふるって敵と渡り合ったといわれている。しかし、「謙信は武功少なきゆえ、油断してしばらく武田義信に押さえられたようだ」などといいふらし、これが謙信公の耳に入って不興を買ったともいわれている。
永禄十一年(1568)繁長は本庄城に謀反の兵を挙げた。謙信に対する不服や含むところがあってのことではないであろう。謙信公からは外様国衆としては中条藤資についで優遇されている。繁長のこの時の謀反は、武田信玄の越後包囲策に完全に乗ったものと思われる。
当時、繁長は北方の出羽庄内まで版図を広げ、もはや独立大名として起ってもおかしくはなかった。繁長は、まずそのことを思ったであろうし、更には信玄の力を利用して謙信公を討つ事が出来れば、越後はわが物になると踏んだであろう。しかし、繁長の大きな野望も、彼と同じ地盤の揚北衆の味方なく、信玄も目を駿河に転じてしまった為、あえなく夢と消えた。孤立した繁長は謙信公に降伏し、再びその麾下となり以後は重臣としてよく働いた。
天正六年(1578)、「御館の乱」では景勝方に属した。
慶長三年(1598)奥州(福島)森山城に移り、ついで福島城主となる。慶長五年(1600)関ヶ原の戦いがおこると、上杉景勝は石田光成に呼応し会津で兵をあげる。景勝の戦略は、越後で騒乱を起こし、直江兼続に最上氏を攻略させ、繁長と須田満親に伊達政宗と対戦させるということであった。このとき福島城を攻めた伊達勢は、幔幕を奪われるほどの敗軍であったという。 慶長十八年(1613)12月、福島城で没。
長尾 政景
南魚沼郡六日町・坂戸城主、越前守。戦国大名の多くは、その成り立ちの過程で同族と骨肉の争いを経験しなければならなかった。身内は頼るべき味方であると共に、いつ己に取って代わるかも知れない最も危険な存在でもあった。若き謙信公に対する政景がそれであった。
政景の家は上田長尾氏と呼ばれ、魚沼郡上田庄を本拠とし勢力をふるっていた。上田庄は元々、関東管領上杉氏が越後に持っていた所領の一つで、上田長尾氏はその代官であり、同族とはいえ守護代長尾氏とは一線を画していた。系図をたどれば上田長尾氏は越後長尾氏の宗家であるらしく、守護代何するものぞという気風があったのであろう。
守護代長尾為景(謙信公の父)の勢威が盛んになったとき、天文二年(1533)【上条の乱】、守護勢力が決起。政景の父房長はそれまでの為景とのよしみを捨てて立ち上がった。結果、為景は隠退しほどなくこの世を去る。ついで晴景(謙信公の兄)が守護代職に就くことになった。
晴景は房長と和を結び、その証に仙桃院(謙信公の姉)を政景に娶わせた。この守護代家との結びつきは、上田長尾家にとって束の間の春をもたらしたようだ。一書に「恩禄身にあまり、威権肩を比ぶるものなし」とあるが、病弱な晴景を自在にあやつり、あわよくば若き政景が守護代の座を奪うことも夢ではないと思ったであろう。しかし、謙信公の栃尾入城と、それにつづく諸将の謙信公担ぎ出しの動きで危うくなった。
とうとう政景は晴景を擁して謙信公討伐の兵を挙げ、「北越軍記」の記すところの米山合戦を繰り広げるのである。しかし守護上杉定実の斡旋で和解が成り、守護代の座は謙信公に移る事になる。
政景は上田に籠もり、参勤もしなくなってしまい、やがてその態度が叛意と見なされ、謙信公の出馬の沙汰が出る。謙信公は初め、房長・政景父子を殺そうと思っていたようだが、姉の仙桃院が政景に嫁いでいる事や、老臣達の切なる助命嘆願などがあり、ようやく願いを聞き入れる気になったといわれる。
以後、政景は後世の書が「謙信次将」と記すほどに重く用いられている。謙信公出家騒動の際、関山権現で祈祷中の謙信公を大いに諌め呼び戻すなど、政景の尽力が大きい。
永禄七年(1564)夏、上田庄の野尻池で謎の水死をとげる。酔ったあげくの溺死、刀疵があった、同船した宇佐美定満が船に穴をあけた、など死因に諸説あり、政景が武田信玄に内通したので謙信公が宇佐美に殺させたのだ、いや、宇佐美の独断だと・・・。事件の背景についても説が分かれている。定満76歳、政景39歳、とにかく自然死ではなかったらしい。政景の子、喜平次景勝は謙信公後継者となり、後の豊臣政権五大老の一人となり、米沢藩祖。
安田 長秀景
越後北蒲原郡白河庄・安田城主、治部少輔。揚北衆(阿賀野川以北の武将)の一人。
伊豆の豪族大見氏は源頼朝挙兵の際に参陣し功績を立て、白川荘の地頭職に補任された。のち子孫が白川荘のうち安田条と水原条を相伝し、安田氏、水原氏を名乗ることとなる。
すでに謙信公の父、長尾為景の代から臣属していたとみられ、天文十三年(1544)には、謙信公の兄晴景から所領を新給されている。
謙信公が林泉寺を出て越後平定にのりだした当初からその陣中にあり、謙信公擁立のクーデターにも参加した。以後、謙信に従って関東や信州に出陣多数。
永禄四年(1561)三月、小田原城包囲戦に参加。同年9月、第四回川中島合戦の際は、直江景綱、甘糟景持と共に、信玄の嫡子、義信の軍を倉科のあたりまで追撃し、戦後その功によって謙信から「血染の感状」を授けられた。「安田治部少輔殿」という宛名のこの感状は現存する。
天正六年(1578)9月20日、謙信公亡きあとに起った上杉家の家督争い「御館の乱」では景勝方に属し、三潴分の恩賞を与えられた。天正九年(1581)、揚北衆の新発田重家が織田信長に通じて上杉家に叛くと、景家の軍令に従って新発田攻めに赴いたが、まだその決着がつかないうちに病没したと伝えられる。
山本寺 定長
越後西頸城郡・不動山城主、伊予守。山本寺家は扇谷上杉家の一門であり、越後守護上杉房朝の弟朝定を祖とする。途中断絶したため長尾家が再興させた。
不動山城主は、代々「度々戦功あり」と、『上杉将士書上』にあり、弘治元年(1555)7月、第二回川中島合戦には、山本寺伊予守常孝が活躍した。常孝は定長の別名とされる。『川中島五箇度合戦之次第』には「山本寺ら、一度にドウと突いてかかりければ、信玄の本陣、破れて敗軍なり」とあり、『北越軍談』では、信玄軍に前後をはさまれた謙信軍はまさに敗走という危機に陥った。そこへ、定長は新発田長敦らとともに春日弾正の備えに突っ込み、散々に武田軍を蹴散らして、味方を救出し犀川をさして引き退いた、と記している。
永禄二年(1559)、謙信は二度目の上洛を果たした。帰国した謙信に諸将は祝儀を贈ったが、山本寺定長は金覆輪の太刀を直接、謙信に渡した。このときのことを記録した『侍衆御太刀之次第』という記録には、直太刀の衆として、長尾景信・桃井清七郎に次いで、第三位に定長の名が記されている。
天正三年(1575)の「上杉家軍役帳」によると、71人の軍役を負担している。天正五年の上杉軍団動員名簿「上杉家家中名字尽手本」にも名前が記されている。
定長には弟景長(孝長)がおり、景長は永禄四年(1561)第四回川中島合戦に出陣した事が『北越軍記』にみえる。ついで天正四年(1576)の越中攻めに、謙信の旗本として従軍した。翌五年の関東出兵にも従い、厩橋城を経て関東の地で戦った。御館の乱には、謙信公の養子・三郎景虎(北条氏康八男) の後見役が兄定長であったため、袂を分かち景勝に加担し、乱後、兄に代わって不動山城主となった。その後、織田信長の北陸進出を阻止することに努めたが、天正十年(1582)六月、魚津の戦いにおいて吉江景資らとともに玉砕。33歳であった。
高梨 政頼
信濃国高井郡高梨の清和源氏井上流を祖とするといわれるが、定かではない。戦国時代の初め、政頼の祖父政盛は長尾為景の姻族として結び、「永正の乱」で前関東管領上杉顕定を討つ。政盛の女子は越後守護代長尾能景に嫁して為景と二女を生み、その次女がまた、政盛の孫政頼の妻になるというように、両氏の婚姻関係は深いものがあった。
政頼の時代になって領主支配は安定するが、先述のとおり長尾氏の強力な支援があってこそのものであった。それゆえ、長尾氏との関係はこのころから従属的な同盟関係へと変化していたようだ。とはいえ、高梨氏は政高以来領土拡大して中野の地のに本拠を構え、一定の自立を保ちつつ、自らを越後の戦国大名長尾氏の領国外辺部に位置づけて、国境防備の一翼を担ったことで、北信濃における領域支配を補完しえたのであった。
しかし、やがて武田信玄の手が北信濃にも及び、敗れた政頼は小笠原氏・村上氏らとともに越後の謙信公を頼って退却する。信濃制圧の総仕上げとしての武田信玄の川中島侵攻である。北信濃、奥信濃の国人衆達が、こうした信玄の脅威に対して越後に救援を求め謙信公御出陣と相成り、ここに以後10余年にわたる川中島合戦が始まる。
永禄四年(1561)第四回川中島合戦には、上杉軍先陣として政頼とその子、秀政・頼親ら高梨一族は活躍している。秀政はその後小笠原氏に仕え、遠江の高天神城で討死。また、頼親は上杉景勝に仕えて、景勝の会津移封とともに、会津の地に移っていったらしい。
大熊 朝秀
越後中頚城郡板倉・箕冠城主、備前守。大熊家は長尾家と同じく、越後の守護上杉家の被官で、代々上杉家に重用された。謙信公の父、長尾為景が主君上杉定実をないがしろにするに至って、朝秀の父、大熊政秀は、決然として為景に抵抗する。後を継いだ晴景が、定実を起用して守護と仰ぐようになり、一応は戈を収めた。
天文十九年(1550)に定実が病死して上杉家が断絶し、主家のために尽くした大熊父子の忠誠も水の泡と消える。謙信政権下にあっても、本庄実乃、直江景綱と共に朝秀は重用されたが、同輩は長尾家譜代の臣で、旧上杉家からみれば陪臣の者共であった。こうした組織である以上、派閥が生まれる事となり、本庄実乃と大熊朝秀は国侍どうしの所領紛争の処理問題がきっかけとなり、激しい対立関係に入った。
弘治二年(1556)謙信公出家騒動が起り、家臣達を仰天させる。引退の大きな理由として、家臣達の内紛がやまない事をあげた。直接、大熊・本庄の対立を名指してはいないが当然そのことも含めての事であろう。事態の収拾に乗り出したのは、長尾政景であった。政景は長尾系諸将と図ったうえで、一方の当事者である朝秀を政権中枢から排除する策をとった。つまり、政権を長尾系諸将によって固めようとしたわけである。
朝秀は孤立無援の立場に陥ったので、甲斐の武田信玄と結んで長尾政権に反旗をひるがえし、会津の芦名盛氏らもこれに応じた。長尾政景は大いに驚き、関山権現に祈祷中の謙信公に追いすがって懇請し、謙信公も納得し帰国。武田信玄は、会津の芦名家の重臣山内舜通に書を送り、朝秀らと相呼応して越後に攻め入るよう依頼し、朝秀からもこれを懇請したので、舜通はこれを承諾して手配を開始した。朝秀らはこれに力を得て越後に乱入したが、謙信公は、庄田家賢・上野家成その他諸将を西浜口に遣し、8月23日駒返でこれをうち破った。結局、朝秀は甲斐に赴き、信玄のもとに身をよせた。
甲斐に逃れた朝秀は譜代のように信任され、永禄九年(1566)武田信玄の西上州攻略戦に無類の働きを賞され足軽大将となり、駒馬三十人、足軽七十五人を預けられた。人数からみれば、足軽大将中第2位の位置である。
天正元年(1573)に信玄が没し、以後信玄の子勝頼につかえ、天正十年(1582)3月、天目山に織田・徳川の連合軍に攻められ、妻子もろとも自刃したとき、朝秀は勝頼に殉じたのである。宿将老臣の大部分が反旗を翻した際、朝秀が最後まで武田家と運命を共にした忠誠は、いまなお称えられている。
大熊朝秀を謙信公家臣団に連ねるかどうかは、いろいろな解釈があるとは思うが、守護上杉家に忠節を尽くし最後まで武田家に殉じた姿は、結果的には長尾家に対する反逆者となったが、終始一貫した義の武将である事に違いなく、ここに御紹介させて頂いた。
北条 高広
刈羽郡佐橋庄・北条城主、丹後守。鎌倉幕府草創期の実力者、大江広元を祖とするといわれる。広元の孫で毛利氏を称した経元の系統であり、安芸の毛利氏も経元の系統で、毛利元就もここから出た。つまり系譜が正しければ、高広と毛利元就は同じ祖の血が流れていることになり、数ある越後豪族のなかでも飛びきりの名族であった。
高広の北条家は、早くから守護代長尾家に協力しているが、高広は謙信公に仕え「器量、骨幹、人に倍して無双の勇士」(北越軍談)と謳われた。戦場では先駆けを心がけ、身体に邪魔にならぬよう小ぶりな旗差物を差していた。その旗の紋様は白地に熊蟻(オオクロアリ)を一匹描いたものだったという。
この謙信公無二の武将とも思われた武辺者が、天文二十三年(1554)、突然離反を企てた。動機は定かではないが、信玄に密使を送っているところをみると、信玄の謀略に乗せられてしまったものらしい。この時期、信玄は奥信濃の地侍にも手を伸ばしているから、高広に何か隙を見つけて煽ったのかも知れない。あるいは高広は「謙信をも、何れをも侮り申すほど」の武辺自慢であったが、その割に重用されること少なく、それを不満に思っていたとも考えられる。
この時の離反は謙信公御出馬により、高広はあっけなく降伏。謙信公もこれを許し、以後七手組隊頭の重職に任じられ、元のように謙信の下で戦場を駆け巡る。謙信が高広を許したのは、その力量もさることながら、若き謙信公を国主に擁立してくれた恩もあっての事かもしれない。
永禄二年(1559)の、「侍衆御太刀之次第」には、披露太刀の衆として名前を連ねおり、翌永禄三年5月、謙信公は居多神社に制札を掲げた折、高広は奉行職として署名している。
永禄6年(1563)上野国厩橋城代となったが、北条氏康の誘いにのって謙信公に叛き、これも許されている。
天正六年(1578)「御館の乱」では上野国から北条城に戻り、子の景広とともに景虎方となり、高広は指揮官として奮戦したが、敗れる。
天正九年(1581)北条城は落城。その後、武田勝頼の仲介で景勝に仕え、更には織田信長の代官、滝川一益に仕えたともいわれている。
小島 彌太郎
小島一忠(異説あり)。謙信公御幼少の時より、金津新兵衛、戸倉与八郎、秋山源蔵、黒金孫左衛門らの家臣と共に、父為景から側近として配されたといわれる。所伝によれば、力士衆でもあり、六尺を超える威丈夫で、初め為景の馬廻りを勤めて各地を転戦し、上杉家中でも有数の武勲を重ねていたらしい。そして謙信公の近臣に任じられてからも前にもまして勇猛果敢さを発揮し“鬼小島”と呼ばれて、近隣の豪族から恐れられた。
しかし、天文十六年(1547)の栃尾の戦いで戦死したいう説もあり、上杉家中には小島姓も多いため様々に伝承されている。その勇猛伝説の多さで、なにかと虚構・伝説の人と見られがちだが、実在の人物ではある。長岡市に、彌太郎が開祖となった龍隠院があり、ここには弥太郎の遺品などが伝えられ、法名大功徳主福聚院殿無量徳海入道大居士。
勇猛伝説としては、川中島合戦での伝説は有名だ。信玄は、豪傑無双と名高い彌太郎を怯えさせ、恥じをかかせてやろうと画策したのか、武田軍の陣幕の中に、近隣に「人喰獅子」と知れわたる猛犬を放していた。彌太郎は謙信公の使者となり信玄の陣営に赴いた。
それを知らぬ彌太郎は、信玄に謁見し使者の口上を述べた。するとその猛犬は彌太郎に飛び掛り、脛に喰らいついた。しかし彌太郎は顔色一つ変えず使者の口上を述べながら、ゆっくりと「人喰獅子」の口顎を握りしめながら、信玄の返答を聞き終わると、その口顎を握り潰し、轟然と立ち上がるやいなや「人喰獅子」を庭先に叩きつけた。さすがの猛犬も目耳鼻口から流血し即死。それを尻目に彌太郎は悠々と辞していったという。
更には、天文二十二(1553)年の謙信公御上洛の折、将軍足利義輝の元に凶暴極まりない大猿が飼われていた。この大猿を謙信公の通る道端から襲わせ、謙信公の度肝を抜いてやろうと企てた。京へ先行していた彌太郎は、その大猿の檻に近づき餌を与えた。三つ目の餌を取ろうとした瞬間、大猿の腕を掴み、豪腕にまかせ鉄格子に押さえつけて猿を睨み据えた。凶暴な大猿も豪傑無双と謳われた彌太郎の怪力には手も足も出ず、泣き叫ぶばかりであったという。
謙信公御上洛当日、その大猿は御約束通り、謙信公御一行の通る道端に繋がれ、牙をむいていた。ところが謙信公御一行がその脇を通り過ぎた時、情けなくも大猿は襲い掛かるはおろか、震えて道端に平伏していたのである。大猿は謙信公のすぐ脇に控える彌太郎の眼光に怯えて、身動き出来ずにいたと伝えられる。
諸説は多いが、上杉家臣団になくてはならない猛将である。
河田 長親
越中新川郡・魚津城主のち松倉城主、豊前守。近江守山住人。永禄二年(1559)将軍足利義輝に拝謁するため上洛した謙信公が、近江の日吉大社に参詣したとき、謙信公の目にとまり越後に連れ帰った。その後、一族をあげて越後に移住したとされ、謙信公の寵童ともいわれている。
謙信公に仕えた長親は、性温厚にして知略ありと言われ、謙信からの信任も厚かったようである。謙信公は、長親に古志長尾氏を継がせ、長尾の姓と紋を与えようとした。しかし、長尾の姓を名乗ることを畏れ多いとし、辞退したと伝えられる。
永禄年間は主に関東に活躍。同十一年、一向一揆との戦いが激化すると越中に派遣された。椎名康胤の叛乱もあり、謙信公越後帰国後は越中在番として魚津城主。
元亀三年(1571)に一向一揆が乱入し敗戦したが、翌元亀四年(1572)に信玄が没すると、一揆勢に組した椎名康胤を攻め滅ぼし、形勢逆転。戦功により、太田下郷を与えられ、松倉金山の経営も行い、基盤整備に尽力。
織田軍が急成長し北陸方面に勢力を拡大すると、翌天正五年(1577)謙信公は能登へ出陣。織田方の七尾城を攻略し、手取川に進撃した。このとき、長親は謙信から命じられて鯵坂長実とともに七尾城を受取っている。これにより謙信公の能登制圧が叶う。
天正六年(1578)謙信公急死。上杉家危機の中、織田信長から誘いを受けるも勇断としてこれを断り、「御館の乱」で景勝方につき奮戦。天正八年(1580)、景勝方勝利に終わる。
翌天正九年(1581)三月、長親は越中松倉城で病没。享年39歳。
長親の子、岩鶴丸が後を継ぐが、天正十四年(1586)に早世。わずか13歳であった。
宇佐美 定満
越後琵琶島城主、駿河守。伊豆国宇佐美荘出身で越後国上条上杉氏の臣、房忠の子。上杉定憲と共に上条上杉氏の再興を図り、謙信公の父、長尾為景に抵抗したが失敗して降伏。 為景亡き後、嫡子・晴景と対立して栃尾城に入っていた上杉謙信を本庄慶秀と共に輔佐し、天文十八年(1549)6月、長尾政景が叛いたとの風聞が流れると、ついで定満の居城で放火騒ぎがあった。政景が、かつての同志、宇佐美、平子などが謙信公に帰属したのを快く思わず、付近の農民にけしかけて放火させようとしたといわれる。天文二十年(1551)謙信公と共に政景を降伏させる。一説には、宇佐美の策により政景を挙兵させたともいわれている。
永禄七年(1564))野尻池にて政景と船遊びをしている最中に船が転覆して共々に溺死とされるが、永禄五年(1562)に討死の説もある。溺死にしても、宇佐美が船に穴を開けた説や、討ちあいの刀疵があった説もある。忠誠心の薄い政景を、老齢の宇佐美が最後の大仕事として、謙信公の密命により謀殺したとも言われている。
定満は19歳の頃から57歳まで女色を絶っていて、宇佐美の血が絶える事を憂慮した謙信公の勧めで側室を置き、定勝が生まれ、ついで勝行が生まれたともいわれ、60歳を過ぎて再び側室を離縁し、野尻池で溺死するまで女色を絶ったといういい伝えもある。
直江 兼続
羽前・米沢城主、山城守。樋口惣右衛門兼豊の子として、永禄三年(1561)坂戸城に生まれ、上杉景勝の近習となり春日山に入る。
天正六年(1578)謙信公亡き後の家督争い「御館の乱」では、北条氏政、武田勝頼の後ろ楯ある景虎に有利と判断する武将が多々ある中、兼続は、勝頼の妹菊姫を景勝が迎える事を条件に、武田勝頼を景勝側につかせることに成功する。これにより、景勝方に勝利を呼び込む。
天正九年(1581)春日山城中で直江信綱が、毛利秀広に斬られた。信綱に嫡男なく、名門直江の断絶を惜しんだ当主景勝は、信綱未亡人「お船」に兼続嫁入りを命じ、兼続が直江家を継ぐ。翌天正十年(1582)、織田軍に攻められ武田家が天目山に滅亡。勢いにのる織田軍は、越中魚津城、上州厩橋城を落とし、越後に迫る。大きな危機に陥った上杉家であったが、同年6月、織田信長が明智光秀の謀反により本能寺で討たれる。
翌天正十一年(1583)2月、景勝は織田後継者最有力の羽柴秀吉と和し、この危機をのがれる。
天正十六年(1588)5月、兼続は景勝と共に上洛し、景勝は従三位参議、兼続は山城守に任ぜられた。その後景勝は権中納言に昇進し、秀吉政権の元、五大老に任ぜられる。
慶長三年(1598)景勝は120万石の大大名になるが、兼続は陪臣でありながら、破格の米沢30万石が与えられた。秀吉が兼続を直参にしようと謀り、兼続に破格の待遇をし、景勝と兼続の仲違いを狙ってのことともいわれている
同八年(1598)、豊臣秀吉逝去。天下取りを狙って様々の策謀をめぐらし、豊臣政権の切り崩しを始めた五大老筆頭徳川家康がいた。家康が暗躍するなか、慶長五年(1600)2月、8万人とも12万人ともいわれる人手を使い、兼続を監督として諸城を修復し、道路や橋も整備。更には、車丹波、上泉秦綱、斎道二、兼続を慕ってやってきた前田慶次郎らを始め、多くの浪人を雇いいれた。この動向が「上杉に叛意あり」とされ、家康は使者をもって景勝の上洛を促した。
慶長五年(1600)4月13日、景勝への八ヶ条の詰問状を持った使者が会津に到着。書状を受け取った兼続は、逆に家康批判の返書を渡し、家康の要求をはねつけたのである。この返書こそ、後世に伝えられる「直江状」だ。しかし、家康はこれを口実とし、景勝征伐のため、同五年(1600)6月18日、伏見を出発。上方で石田三成挙兵の報を聞くや、家康は関が原にて天下分目の一戦に及び、勝利。
一方上杉軍は、寒河江城、谷地城、白岩城を落とし、兼続軍は畑谷城を落とし、ついで長谷堂城を包囲した。しかし、9月29日会津の景勝から兼続に、関ヶ原での西軍の敗退と、撤退を命じる書状が届く。迅速に撤退する兼続軍に、伊達、最上連合軍が怒涛の追撃戦を開始。兼続の見事なる撤退戦は、後に旧日本軍参謀本部の「日本戦史」にも取り上げられる。
西軍敗戦後、会津から米沢に移封となり、120万石から30万石に減封。更に、家臣のほとんどを解雇せず米沢に連れていった為、上杉家御台所は困窮した。これを憂慮した兼続は、開墾、治水、商業、鉱山開発に尽力し、特に鉄砲製造に力を入れた。結果50万石を越える益をあげたといわれ、兼続の農業指導書「四季農戒書」は有名である。
元和元年(1615)7月12日、兼続嫡男、景明が22歳で没し、元和五年(1619)10月19日、江戸上杉屋敷で病没。享年60歳であった。景勝は香典銀50枚、将軍秀忠も銀70枚を供えたという。