KENSHIN STORY4

憲政公とワシは厩橋で越年した。永禄4年(1561)になると、正月初めから続々と諸将が参集してきた。太田三楽(資正)をはじめ、小幡、大石、見田、白倉、忍、荻田、藤田、長尾、三浦、岡崎、宗龍寺、那須、清党などの上杉家の旧臣が馳せ参じた。

軍兵の人数は「松隣夜話」では7万余と言い、「鎌倉九代記」及び「関八州古戦録」では11万3千と言っている。

全て関東の兵と言っても過言ではなく、少なくとも実数は10万近かったものと思われる。

この頃、越後に下向していた近衛前嗣公は直江実綱の増援隊と共にワシのもとにやって来て、厩橋城で上杉憲政公と顔を合わせた。ワシはこれら10万の兵を率いて一挙に小田原城を衝く作戦を立てた。氏康を押し込むにはその本拠を攻撃するのが最良の作戦であろう、越後を発った時からこの作戦を考えていたのだ。

ワシは全軍に小田原城攻撃の命令を発した。先鋒は岩槻城主・太田資正、忍城主・成田長泰。

ワシも柿崎和泉守、直江大和守、宇佐美駿河守などの幕僚諸将を従えて厩橋城を出て一路南下した。

一方、北条氏康は旧憲政幕下の諸将の大部分がワシに馳せ参じ、味方についていた諸将もワシになびき、あるいはにわかに中立を宣言する者も出てきたのを見て、正面から受けて立つ野戦は不可能だと判断した。

同盟を結んでいた今川義元は、去年、尾張の桶狭間で織田信長に討たれ、同じく同盟関係にある武田信玄は、信濃の善光寺平・碓氷峠などに兵を出し、ワシを側面から牽制してはおるものの、援軍として送ってきたのは初鹿野源五郎を主将に僅か300人程にすぎなかった。

合戦は不可能と判断した氏康は籠城を決意し、武器・弾薬・食料・衣服その他を出来るだけ多く城中に蓄え始めた。

小田原に向かって南下するワシの関東連合軍は、途中小田原方の城砦を降し、2月鎌倉に入った。

鎌倉は以前、公方や管領館の所在地であったため賑わっていたらしいが、そのころは非常に寂しい町になっていた。閑散とした町並みを過ぎ、藤沢、平塚、大磯と進み、小田原近くなると民家をことごとく焼き払いながら更に進軍。

そして3月13日、小田原着陣と同時に総攻撃を開始。

太田資正は真っ先に進み、蓮池門まで攻め入った。この時ワシは味方をも驚かす、勇武とも無鉄砲とも取れる行動を示してやった。

ワシは兜もつけず、白い布で頭を包み朱の軍配をとって、軍勢の間を下知して回った。諸将も兵も恐れをなし、空気が一変したのぅ。

柿崎和泉守、直江大和守を左右に従えて蓮池門の近くまで進み、城中から兵が繰り出して来たなら、それを追って城中につけ入ろうと待ち構えた。だが、城中からは一兵も出てこなかった。

ワシは池の端に馬を繋ぎ、所持の弁当を、茶を飲みながら食べ始めた。それを好機とした城中の金沢という輩が、ワシに向かって十挺程の鉄砲をうちかけさせた。三十間ほどの距離にも関わらず、弾は鎧の袖を打ち抜いただけでワシには当たらなかった。ワシは悠々として茶を三杯までも喫した。

斯様な姑息な手段でワシを討ち取ろうとするなど笑止千万である。

しかし流石は天下堅城の小田原城、ワシの勇猛とその大兵をもってしても結局落とすことは出来なかった。更に我が連合軍は、なかなか容易に抜けない城を前に、軍備が不足気味になってきた。当時の出陣費用は全て各将の自前であったため、兵の分は直属の将が負担した。関東の諸将は地元だけに補充しやすかったが、我が越後軍は補充する距離が遠すぎた。

こうした事情のため、残念ながら長期の包囲戦は無理だった。

それでもワシは1ヶ月ばかり、平然と包囲攻撃を続けた。しかし戦況に変化が無いため諸将も兵も倦んできた。このまま包囲戦を続けると、北条方に寝返るものが出てくるかもしれない。

ワシの幕僚をはじめ、佐竹義重、小田氏治などが退陣を勧めた。

彼らの言い分は一様に「これだけの大軍を従えて氏康を押し込み、手も足も出なくさせたゆえ新管領としての面目は立ち申したと存じまする。面目が立った以上、御退陣が賢明で御座いましょう」というものだった。

ワシも彼らの言に納得し、3月初め囲みを解いて鎌倉に向かった。

参考引用文献「学研 歴史群像シリーズ⑧ 上杉謙信」
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