KENSHIN STORY6

武田信玄は天文10年21歳の時、父、信虎を追って自立。

甲斐国主となり、翌年諏訪頼重を謀殺して信濃征服の門戸を開き、19年には松本の小笠原長時を追い、続いて葛尾城の村上義清に強圧を加えておった。

天文22年4月、とうとう葛尾城が陥落。義清は塩田城に籠もって抵抗したが8月にはこの城も落ち、越後に逃れワシを頼ってきた。いよいよ信玄の脅威がひしひしと越後国境に迫ってきたということじゃ。

8月下旬、ワシは川中島に出陣、初めて信玄と刃を交えた。以来12年の間に5回、ワシと信玄は川中島を舞台に戦った。

信玄が川中島にこだわったのは、川中島四郡を制して信濃征服を完成したかった為だ。

ワシの戦闘目的は小笠原、村上など元信濃諸将の救援と、親戚高梨などの援護の為、侵略者信玄の討伐である。越後の安全のため、川中島一帯を緩衝地帯として維持することも目的だったと言われておるがな。

天文22年(1553)信玄は32歳、自立後12年の経験豊な武将だ。ワシは未だ24歳であったが、還俗からすでに10年、内紛処理や、兄晴景との抗争などを体験して成長していた。

ワシと信玄の12年にわたる川中島の戦いで結局勝敗がつかなかったのは、ワシと信玄が共に優れた武将、政治家であった為よ。《孫子兵法》に「先ず不敗の体制を作り、敵の失策を待ってそれに乗じて勝ちを求める」とある。

中国でも日本でも、戦国時代の近隣の国は全て敵になる可能性があった。

「肉を切らせて骨を断つ」ような戦法で一敵に勝っても、大怪我で弱っておるところを新手の敵に襲われたら簡単にやられてしまう。ゆえに名将の戦いは勝利よりも不敗を優先し、敵が失策を犯さない限り無理な戦は挑まない。

ワシも信玄も他の戦場では果敢な戦闘を交えて華々しい勝利を飾っておる。それは相手が凡将で失策を犯したからだ。ここではどちらも失策を犯さなかったから、どちらも決定的な勝利を収めることが出来なかったのだ。これが戦国時代の名将同士の戦いである。

  • 第一回【布施の対峙】
  • 第二回【大塚の対陣】
  • 第三回【上野原の戦い】
  • 第四回【八幡原の戦い】
  • 第五回【塩崎の対陣】

ここでは、史上名高い第四回【八幡原の戦い】を紹介致そう。

永禄4年8月8日出陣。二縦隊となって国境を越えて善光寺に至り、ここに大荷駄部隊を残し、兵8千を率いて小市の渡しで犀川を渡り、雨宮の渡しで千曲川を越え、8月14日に妻女山を占領、武田軍の海津城を西南から威圧する形をとった。

海津城主・高坂昌信の狼煙の急報を受けた信玄は、8月18日甲府を発ち、諏訪、和田峠を経て丸子の腰越えに進み、ワシが妻女山を占領しているのを知り、室賀峠、山田、若宮八幡東側、塩崎を経て24日茶臼山に進出した。甲府出発時の兵力は1万7千で、これに途中で信濃の将兵が合流している。

塩崎付近を北進して行軍縦隊が横腹を見せた時が、妻女山から攻める好機だが、背後を海津城の部隊に襲われる危険があるため、信玄本隊の行軍を敢えて見逃した。

これにより、ワシの本隊は海津と茶臼山に挟まれ、退路を遮断された形となってしまう。不安になった将兵の中には、春日山の後詰2万人で茶臼山を攻撃させようと申す者、それに対し、後詰を出陣させれば手薄になった春日山を襲撃されることを心配する者などもいた。

だがワシは、「敵が春日山を攻めたら、こちらは甲府を占領すればよい」と言って泰然と構えておった。

しかし信玄もまた、妻女山と善光寺に挟まれる形勢だった。信玄は上杉軍の不安を誘い、退却するところを襲撃する腹であったろう。ここは我慢くらべだった。

信玄にすれば、ワシが退却してくれればよい。後は得意の調略手段で川中島を手に入れる自信があったはずだ。

8月29日、到着して5日後、信玄は辛抱しきれなくなったのか、茶臼山の陣を払い妻女山の北方川中島を横切り、広瀬の渡しから海津城に入り、合計2万の兵力を得た。

この敵前横行は極めて危険だったであろう。しかしワシが攻撃致すにしても千曲川を渡っておるうちに信玄は体制を整えるであろうゆえ、むしろ渡河攻撃する側の我が軍が不利になる。

ワシはここでも動かなかった。

我が軍は、しだいに食糧も乏しくなり士気も衰えた。退却すれば兵力で勝る武田軍に追い討ちされるであろうし、劣勢部隊で海津城を攻めるのは無謀だ。将兵は動揺した、だがワシは悠々と琵琶を弾じておった。

信玄は、退路を塞いで挟撃態勢を見せても、陣前を横行して見せても、海津城に集結して退路を開いてやっても、一向に動かぬワシの腹の中を読みかねておったであろうな。

補給路の遠い武田軍は、我軍よりも苦しんだはず。我軍は春日山から新手を呼び寄せる手段もあるのだ。

ワシよりも信玄の方が焦りが強かったであろうのぅ。

待ちきれなくなった信玄は9月9日の軍議で、明10日妻女山を攻撃することを決した。

これが武田家軍師・山本勘助の献策による有名な「啄木鳥」の戦法である。実際には山本勘助が武田軍の作戦計画に寄与するほどの地位にあったかどうかは諸説もあるが…。

ともかく、高坂昌信先導による迂回隊1万2千は、10日午前0時海津城を出発。

西条、唐木道、森の平、大峰山を経て妻女山の南方に出て、午前6時を期して攻撃を開始する。

信玄本隊8千は、午前4時頃海津城を出発。広瀬の渡しを越えて八幡原に本陣を置き、綱島から西寺尾にわたり西向きに「十二段鶴翼の陣」を敷く。

我が軍は勝っても負けても妻女山を撤退し、川中島を北上して8時頃には八幡原に現れるであろうから、信玄本隊がこれを横殴りに攻撃し、大打撃を与えようという構想であったようじゃ。

武田軍は明日の行動の為の弁当を炊くため、普段よりも早く、また沢山の炊事をした。

戦機の到来を待っていたワシは、この炊煙の変化を見逃さなかった。

明日武田軍は動くと判断し、本陣の妻女山に勇志100人を残し、随所に紙旗を立て、35箇所に篝火を焚いて我が軍の主力が在陣するように見せかけ、9日午後11時頃全軍を率いて妻女山を立ち、「鞭声粛々」三箇所の浅瀬から千曲川を渡った。

直江大和守の小荷駄隊1000を丹波島に先行させ、甘糟近江守の1000を千曲川畔に置いて武田の迂回隊に備えさせ、主力6000は三縦隊となって丹波島の渡しに向かった。

我が軍はこの夜、敵の物見の17人全てを捕殺したと述べておる。これで我が軍の行動は完全に秘匿され、武田軍は我らに裏をかかれたわけだ。

信玄が諜者や忍者をよく使ったといわれておるが、我が軍の対情報組織もそれ以上に素晴らしかったという事だ。

我が軍はあらかじめ車懸りの陣を敷き、霧の晴れるを待って信玄本隊に攻撃を仕掛けたという説があるが、三縦隊となって前進中、午前6時頃霧が晴れた。その時、右手目の前に信玄本隊がいたので、先頭から右向きに逐次戦闘加入方式で攻撃を開始した説もある。

信玄本隊では、信玄の弟信繁、諸角昌清、山本勘助などが討死。

嫡子義信負傷、信玄自身も、「ワシといわれる人物」に斬りつけられて負傷するというように大変な危急に陥った。

炊煙の多さで敵の企図を察知し、敵に先んじて行動を起こし、迂回隊には妻女山を空撃させ、少数の信玄本隊に攻撃をかけて、壊滅寸前まで追い詰めた。ここまではワシの読み勝ちである。

武田迂回隊は山地の夜間行軍に手間取り、夜明け頃ようやく妻女山に到着したが、そこはすでに撤退した後の空陣で、遠く八幡原方面に戦いの雄叫びが聞こえる。

急ぎ千曲川を渡り、甘糟隊を駆逐して我軍の背後に迫ったのは午前10時頃だった。形勢逆転。

挟撃された我が軍は次第に圧迫され、大塚、丹波島付近で、犀川を渡り善光寺方面に退却。

信玄は八幡原で勝鬨を上げさせた、それが午後4時頃だったようだ。

前半の戦いは四時間、後半の戦いは六時間。

ワシは善光寺で残兵4000を掌握し、10月上旬に春日山に帰った。

信玄は一旦八幡原に全軍を集結、午後8時頃海津城に入り、翌日発って甲府に帰ったようだ。

この戦いでの損失は、上杉軍の死傷72%、武田軍88%とされておる。

戦国時代にもまれな大激戦で、普通ならパニックに陥る死傷率である。この戦いでは、両軍共に自軍の勝利を宣言しておるが、公平に見て、前半は上杉軍、後半は武田軍。死傷率では上杉軍勝利、地域確保の点では武田軍勝利。血沸き肉躍る、誠に良き合戦であった。

参考引用文献「学研 歴史群像シリーズ⑧ 上杉謙信」
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