KENSHIN STORY9

こうして睨み合いが続いたま1ヶ月が経ち、9月を迎えた。遊佐から待望の「内応承知」の返事が届いたのは9月13日のことだった。折りしもその日は中秋の名月。「七尾落城近し」を確信したワシは月見を兼ねた祝宴を開いた。「余裕…」である。ワシはその宴席で、中空にかかる名月をめでつつ、七言絶句の漢詩を詠んだと伝えられる。

「霜満軍営秋気清 数行過雁月三更 越山併得能州景 遮莫家郷憶遠征」

(霜は軍営に満ちて秋気清し/数行の過雁月三更/越山併せ得たり能州の景/遮莫家郷の遠征を憶うは)

その2日後、遊佐続光は温井景隆を誘って約束通り、長続連・綱連父子ら長一族の主だった者を謀殺し、我が軍を城内へ導いた。長一族100余人を皆殺しにし、長期にわたった功城戦に決着をつけた。七尾城を陥落させて兵站線を確保した我軍は、勢いに乗じて南下を開始、末森城を落とし、更に加賀へと侵攻した。

これに対し、信長が七尾城支援の兵を派遣したのは、ようやく9月に入ってからであった。

その陣容が凄まじい。まさに織田軍最強部隊であった。

柴田勝家を総大将に、滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、佐々成政、羽柴秀吉、前田利家…という錚々たる陣容だ。彼ら勇将が率いる先鋒部隊の軍勢は約3万。信長自身も一万八千を率いて後を追う予定であった。

安土城を発した織田軍は、越前から加賀に入り、一向一揆勢を蹴散らしながら、七尾城目指して北上する。

9月18日、ワシは「織田の大軍、加賀に侵攻!」の情報を得た。容易ならざる相手であるが、気負いはない。恐れる心もない。「義は我にあり」の思いがあるだけだ。


「柴田、惟任、惟住、一益を始、上方表にて巍く武勇に誇る僻者ども、手取川え伐流して、一騎一卒も活て返す事有べからず。然らば信長怺兼て坐に戈を交えん乎。単的に追惓り、予ては来春上京の志あるのを、今年に推蹙めて速に入洛すべし」


「北越軍記」はワシが諸将の前でこう剛語したと伝える。

織田軍を迎撃すべく、更に南進する我が軍と、北進する織田軍本隊。

この時点で、織田軍は七尾城陥落はまだ知らない。その情報が伝わったのは、加賀手取川を越え、水島付近に進んだ時だったようだ。

降兵を加えて約3万7千の大軍勢に膨れ上がった我が軍が、一路南を目指して進撃中、という情報も入ったであろう。織田軍としては七尾城の奪回は今となっては難しい。一向一揆勢も相手にしなければならない、将兵の間にも動揺が走る。これ以上の進軍は無益、一先ず退散するしかないという結論に達したようだった。

9月23日夜半、織田軍は総退却を開始した。その背後へ、精鋭でなる我が軍が猛突進したのだから強烈極まりない。織田軍は全軍が浮き足だった、手取川は数日来の雨で氾濫していた。進むに進めず、退くに退けない状態で右往左往するばかりだ。

逃げ場を失った織田軍に襲いかかった我が軍は、瞬く間に1000余人を討ち取り、残る将兵を濁流渦巻く手取川に追い落とした。古記録によれば「流に溺て死する者数知れず」と綴られている。

我軍の圧倒的な大勝利である。

ワシと信長の最初で最後の戦いを詠んだ狂歌が残っている。

上杉に逢ふては織田も名取川(手取川)

はねる謙信逃げるとぶ長(信長)

織田の精鋭大軍を完膚なきまでに叩き潰したワシは、それ以上の追撃はせず、9月26日に七尾城に入り戦後処理にあたった。代官として鯵坂を配する一方、私闘の禁止などを命じた触れを出し、越中と同様、能登の領国支配と在地武士団の掌握を図り、12月18日、春日山城に堂々凱旋した。

ひとまず春日山に引きあげたワシは、12月23日、80余名からなる動員名簿を作成した。

翌天正6年(1578)1月19日、「3月15日を期して関東に出兵する」との陣触れを行い、その準備に取り掛かった。

「今や天下は、織田信長の掌中に入らんとしている。極悪非道の織田信長に正義の鉄槌を下すは、日ノ本広しといえども我一人なり」

城下には続々と大軍が集結してくる…。先の動員名簿の作成と大軍の集結を、関東出兵ではなく上洛作戦の準備であったと見る説もあるが、いずれにしても新たに大規模な軍事行動をワシが構想しておったことは間違いない。

しかし…ワシが再び兵を動かすことはなかった。

3月9日、厠で倒れ、人事不省のまま4日後の13日、黄泉の国へ旅立ったのである。

享年四十九歳。

夢に見つづけた上洛を目前にしての、無念至極の急死であった。

辞世の句
四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒

終焉
参考引用文献「学研 歴史群像シリーズ⑧ 上杉謙信」
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