KENSHIN STORY8

天正元年7月、ワシは勇躍、越中へ進撃。神保長職を討ってたちまち越中を平定。上洛の道をさらに伸ばすため国境を越え、加賀・朝日山条を攻めた。その頃、信長もまた浅井、朝倉を討って北進、加賀の一向一揆を攻略していた。ワシと信長の挟撃である。

しかし一揆勢は必死の抵抗を見せた。総力をあげての防衛戦に苦戦を強いられた我が軍は、なかなか攻略する事が出来ない。一進一退の中、またしても関東の情勢が不穏になった。

武田勝頼、北条氏政が上野に侵攻してきたのだ。

ワシは不本意ではあったが和睦し、帰国して関東出陣の準備に取りかかった。が、神保長職がまたもや一揆勢と結んで挙兵。すぐさま取って返して、これを鎮圧。続いて加賀、能登を攻めれば、上洛の道はより確かなものになるが、後顧の憂いを断つ事を先決とし、関東の制圧に力を注いでいた。更なる一向一揆の頑強な抵抗も予想されため、上洛は時期尚早との判断もあっての事だ。

しばらく時は流れ、摂津石山城に拠って信長と激しく交戦していた一向一揆の総帥・本願寺光佐(顕如)が、ワシに和解を持ちかけてきおった。長年に渡り一揆勢に悩まされ、信長の北進を危惧しておったワシに、異論があろうはずはない。

天正4年(1576)5月18日、歴史的な和睦が成立。ワシの上洛を妨げておった最大の障害は一挙に取り除かれた。

先に信長に京都から追放された前将軍足利義昭殿、義昭殿が頼った安芸の毛利輝元、一向一揆勢、そしてワシと、強力な反信長連合も結成される結果になった。

宿敵信玄もすでになく、北条氏政も父の氏康から比べれば凡将だ。ワシが待ちに待った好機が遂に訪れてきたのである。

ワシは、好機逃がすべからずと北陸道への発向を下知。9月上旬、越中に入るやたちまちのうちに栂尾城、増山城、湯山城を攻略。越中をほぼ完全に制圧したワシは、制札を立てさせ軍事支配のみならず、分国としての政治支配体制の強化を図った。

次はいよいよ、加賀、能登攻めである。ワシはまず加賀の津幡に進出、能登七尾城へ使いを送って帰順を勧告致した。城主は未だ幼君の義春、父の義隆が天正二年(1574)19歳の若さで家臣に謀殺され、わずか2歳で跡目を相続したばかりであった。実権を掌握しておるのは当然重臣達である、しかしその重臣達の間にも激しい内部対立があった。

信長派の長一族、ワシに頼ろうとする遊佐続光、本願寺派の温井景隆。

お家の事情はともかく、ワシとしては七尾城はどうしても確保しておきたい拠点であった。信長との衝突は今や避けがたい情勢、七尾城が信長につけば兵站線の確保が困難になる。出来れば平和裏に接収したいところだったが、七尾城内では長一族が優勢で、我が軍との徹底抗戦ということに決したのである。

我が軍は怒涛の勢いで、七尾城の支城に次々と襲いかかり12月までには熊木城、穴水城など、殆どの支城を陥落せしめた。残るは七尾城である、ワシは城下の天神河原に本陣を張った。

七尾城は名にしおう要塞、一挙の攻略は無理と判断致し、七尾攻城の付け城として石動山城を築かせた。年が明けても攻略のめどは立たない。

そのうち関東の諸将から、援軍派遣の要請が相次いで届くようになった。ワシの留守をついて、北条氏政が関東で軍事行動を展開しはじめたのだ。

ワシは関東管領である。関東に乱があれば、それを収めるのが役目である。諸将の要請を無視することは出来ない。

2月に七尾城を総攻撃する予定を急遽中止致し、熊木、穴水など能登の諸城に守将を配し、3月下旬、春日山へ引きあげた。すると畠山勢は俄然勢いづき、七尾城の支城を奪回しおった。北陸侵攻の時の様な事が、今回も繰り返されてしまった。

関東出陣準備中のワシのもとに、「能登の諸城、奪還さる」の急報が届く。さらに3月27日、足利義昭殿からの急使が書状をもたらした。

「信長が紀伊の雑賀を攻撃中。京都を奪回する絶好の機会なので、速やかに北陸道に出兵、隙をついて上洛して欲しい」

4月1日には、毛利輝元からも密書が届く。

「今こそ、越前、近江へ乱入し、京へ上るべきである」

上洛要請は、いままで再三再四にわたってあった。しかしながら現実問題を考えると、様々な障害があり、応えることが出来なかった。しかし今は違う、信長との衝突は避けられないが、能登さえ平定すれば、上洛の道は開かれたに等しい。関東の動きも気になったが、遂にワシは征西の決意を固めた。

時、至る。

天正5年(1577)閏7月8日、越中に出陣したワシは、能登の諸城を抜きまくり、早くも同月17日、再び天神河原に本陣を置いて七尾城を包囲、攻撃を開始した。

その頃、七尾城内では阿鼻叫喚の地獄絵が展開されていたようである。

伝染病が発生、城主の畠山義春をはじめ、陣代の二本松義有など、将兵が次々と病魔に倒れていた。《能州国司畠山殿伝記》によれば、領民多数が七尾城へ逃げ込んで恐怖に打ち震え、城兵の間にも厭戦気分が蔓延、疫病に倒れた多数の遺体が放つ死臭、ところかまわず排泄された糞尿の臭気が立ちこめ、城内は酸鼻の極みに達していたという。

それほど凄惨な籠城戦でありながら、信長を頼む長一族は死守を叫んで叱咤激励し、降伏しようとはしなかった。長綱連の弟で出家していた考恩寺連竜を密かに安土の信長のもとへ走らせていたようである。

しかしワシの方にも秘策があった。かねてから通じておった遊佐続光に密書を送り「畠山氏の旧領と七尾城を与える」という条件で内応を誘っていた。

守備兵2000に対し、功城軍3万。兵力差には相当開きがあるが、前回苦い思いをした名うての堅城。力攻めにはかなりの犠牲が伴うと考えての策謀である。

だが、長一族の警戒があるので遊佐もすぐには内応出来ない。一方、信長も直ぐには援軍を差し向けようとはしなかった。ワシのこれ以上の進撃は、なんとしてでも阻止したかったであろうが、毛利輝元の牽制、一向一揆の激しい抵抗などもあり、我軍に対抗しうるだけの援兵を直ちに派遣する余裕はなかったのだ。

参考引用文献「学研 歴史群像シリーズ⑧ 上杉謙信」
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