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天文22年、ワシは「白傘袋」、「毛氈の鞍覆い」の着用許可と、「従五位下弾正少弼叙任の御礼」を名目に上洛。後奈良天皇に拝謁し、天盃と御剣を賜り、『任国並びに隣国の敵を討伐し、威名を子孫に伝え、勇徳を万代に施し、いよいよ勝を千里に決し、忠を一朝に尽くすべし』という戦乱鎮定の綸旨を頂戴した。長尾家始まって以来の栄誉で、【名利過分の幸せ】と感激致した。
更に、室町幕府、第13代将軍足利義輝公に拝謁致し、大阪の本願寺、紀伊の高野山、京都の大徳寺などにも参詣。大徳寺の徹岫宗九殿からは法号「宗心」を授かった。
翌年、関東に於いて、北条氏康、武田信玄、今川義元の三国同盟が成立した。後にワシの宿敵となる武田信玄は、この三国同盟により後顧の憂いがなくなり、信濃平定に専念出来ることとなったわけじゃな。
ようやっと落ち着いたかに見えた春日山城に、またしても謀反の報告が入った。北条城主・北条高広だ。北条がなにゆえワシに叛いたのかはよう分からぬが、ワシの若さを侮ったのか、一族の安田城主・安田景元との対立からか、それとも信濃から越後に侵略の手を伸ばさんとする武田信玄の調略に乗ったのか。
ともあれ、高広の謀反を喜んだのはやはり信玄であろう。三国同盟により背後に脅威はなく、川中島を侵略するのには好都合であるゆえにのう。
信玄は12月5日に家臣の甘利昌忠を高広のもとに遣わし、春日山城攻略の謀議を練ったようじゃ。
年明けの弘治元年(1555)1月14日、ワシは安田景元に、上条城に在陣しておる柿崎景家や琵琶島城衆らと連絡をとりながら、北条城を攻撃するように下知を致した。
ワシ自身も2月の初め、善根に出陣。善根の地は北条城の動きを観察するのに格好の場所であり、そこで北条城攻撃の陣頭指揮をとることにした。
ワシに包囲され窮地に陥った高広は、密使を信玄のもとに遣わし援軍を求めたが、雪深い越後に武田軍は現れなかった。信玄にとっては背後の越後を撹乱するだけで十分だったのやも知れぬ。孤立無援となった高広は、雪解けを待たずにワシの軍門に下った。
一時は叛旗を翻した高広であったが、以後はワシの信任を得て、奉行職、七手組の隊頭の一人として活躍することとなる。また、永禄5年には厩橋城の城代に抜擢致し、関東の押さえとして君臨させた。
弘治2年(1556)6月28日、27歳の時。恩師・天室光育禅師に書状をしたため、高野山へ向かった。
その内容はこうじゃ。
「国内も平和を回復し、五穀豊饒となりました。この後、安閑としているうちに、再度混乱することがあれば、多年の業績も水の泡となってしまうでしょう。古人は【功成り名を遂げて身退く】といっております。私も国主をやめ、仏門に入って修行したいと思います。幸い家中譜代の中には有能な方々が多いので、お互いによく話し合って政治を行えば間違いはありません」というような内容で、この手紙は実に1400字もの長文であった。
ワシがなぜ突如として出家を決意し、越後を出奔したのかは、様々に言われておるようじゃが、
第1の理由として
「国内は表面的には平穏であったが、豪族達の対立が後を絶たなかった事」
第2の理由として
「川中島回復、関東平定という大問題が未解決のままであったため、出家という大芝居を打つことにより、内紛を即時に解決しようと図った」
ともいわれておる。
更には、禅の奥義を修めた27歳のワシが、人心を欺き謀略を繰り返す乱世の現実に嫌気がさし、厚い信仰心による思いつめた心が出家に駆り立てたともいわれておる。
ところが、この出家騒動を知った箕冠城主・大熊朝秀が突如武田信玄に内応し挙兵。
内部攪乱は信玄得意の戦法である。朝秀はこの信玄の触手に乗って箕冠城を捨て、一旦越中に退き、信玄の来援を待った。
大熊朝秀は春日山城の勘定方を勤めておったこともあり、城内の動揺は激しかった。
ワシの出家騒動と朝秀の離反。春日山は危機に陥ってしまう。
諸将は城中で策を議したが、結果、ワシを呼び戻そうということで衆議一決、関山権現で祈祷中のワシのもとへ長尾政景が馳せ参じ、大いにワシを諌めおった。
義を重んじるワシは、政景の説得を受け入れ、還俗を決意し春日山城に帰還。すぐさま軍を起こして越中から越後へ進撃してきた朝秀を、駒返しで楽々打ち破った。
敗れた朝秀は、信玄のもとへ身を寄せ、以後朝秀は武田家に仕え、その忠勤ぶりは武田家譜代の家臣以上であったといわれておる。
それにしても朝秀はなにゆえワシに叛いたのか。
考えられるのは、長尾家の家臣が幅をきかせるようになり、上杉以来の宿将であった朝秀の席がなくなってしまったということだ。
先に黒田が滅び、ワシに逆っておった政景も今や姻戚関係を結んでいる。最後まで在地土豪として勢力のあった北条氏もワシの軍門に下っている。
新興勢力に押され、危機感をつのらせているところへ信玄の調略。これが朝秀に謀反を起こさせるに至った理由ではなかろうか。