闘
これでワシの越後統一戦は終わったかに見えたが、国人衆の割拠という情勢が払拭されたわけではない。離反の芽は依然として残されておった。
特に、下越、揚北はしばしば春日山城に反抗した歴史を持ち、その伝統は根強く残っておった。
大熊朝秀の乱から12年後の永禄11年(1568)3月、その揚北の本庄繁長が反乱を起こした。本庄繁長は、川中島合戦においてワシから血染めの感状を受けるなど、多くの戦功を立てていた。
しかし、またしても武田信玄の調略により謀反を起す。
当時、ワシは越中侵攻の途上にあった。信玄にとっては、越駿同盟を打破する為にも、ワシを背後から牽制する必要があったのであろう。
そんな中、ワシの陣に「本庄謀反」の急報が中条藤資から届いた。藤資は繁長からの謀反の誘いの密書をそのままワシに見せたのである。
繁長は此度の反乱を起こすにあたって、同じ揚北衆の藤資や色部勝長、黒川実氏、鮎川盛長等と共に決起するつもりだったようだが、こともあろうに皆に断られた。
周囲を敵に廻し、頼みとする武田軍の援護を待つため繁長は籠城する。
一方、信玄も本庄氏救援のために本願寺と連絡をとり、勝興寺に越後侵入を頼み、自らも7月10日飯山城攻撃に出張って来おった。更に飯山城が落ちぬと見るや、今度は関山街道へ侵攻する気配をみせる。
3月25日に陣を引き払い春日山城に戻ったワシは、8月10日には長尾景信、山本寺伊予守等を派遣し、武田軍の関山侵攻に備え、信玄の動きを睨みつつ本庄城攻撃の策を練っておった。
そして10月20日春日山城を出陣致し、11月7日からいよいよ本庄城攻撃を開始。
対して本庄繁長は信玄に関東から越後に通じる重要拠点・上田庄への出陣を要請。
もしもこれが実現すると、ワシも黙視出来なくなる。だがその時の信玄の目は、もはや越後にはなかった。正反対の駿河国への侵攻に向かってしまったのだ。
それにより本庄城は孤立する。12月28日に、米沢の伊達輝宗の仲介で赦免を願いでて参ったが、ワシはこれを拒否。
3月に入ると今度は伊達輝宗と芦名盛氏を通じて、繁長からの赦免が願い出た。
奥州武将の仲介であったため繁長の子、顕長を人質とする事を条件にこれを許し、戦いは終わった。
ワシが春日山城に入城してから実に20年余の内乱がここに終結したのである。
永禄2年(1559)将軍足利義輝公から【関東管領職】襲封の允許を与えられたワシは、翌永禄3年8月26日、春日山城を発って関東に向かった。率いるは幕下の諸将をはじめ、兵8000。関東への初めての出陣である。前管領上杉憲政公も共に陣中にあった。
上杉憲政公は、遡ること9年前の天文21年(1551)1月、関八州の制覇を目指す相模小田原の北条氏康(早雲の孫)に抗しきれず、居城の上野平井城を“捨て城”同様にして、ワシを頼ってきたのである。
ワシはこの頃、国内をほぼ平定したばかりであり、まだ十分実力は備わっていなかったが、憲政公が主筋であるのと、頼まれたら後には退かぬという性格ゆえ、北条氏康討伐の頼みを引き受けた。
ワシはこの年の夏、旗下の平子孫太郎、庄田賢定を関東に出陣させ、上州沼田付近の北条方の属城を攻めさせた。しかし北条方はなかなかしぶとく、容易には攻略できなかったので、ひとまずは兵を退いた。
そこで今一度陣容を立て直して強力なものとし、あらためて出陣しようと考えていたのじゃが、武田信玄との対陣や、国内の反乱なども重なり、更には将軍足利義輝公の要請に応じて前後2回も上洛した為、関東遠征はのびのびになってしもうた。
永禄2年(1559)の二度目の上洛の際、ワシの希望にそって将軍より【関東管領職】襲封の允許を頂いた。(【上杉古文書】によると、この時ワシは【おうじゃくの身として争か此重職を拝受せんや】と固辞し、管領憲政公を保護し北条討伐の軍を起こしたとある。
これによって、遂に関東出兵の名分と筋が立った。
ワシは関東進発に先だち《在陣留守中掟事》という九ヶ条の法度をだし、留守部隊に厳重な警戒を命じた。
これは主として信玄の謀略による領内侵入に備えたものだ。
ワシの軍勢は8月28日、峠を越えて三国街道を上州に下り、その日は月夜野に至って宿営。
29日未明に沼田に向かい、沼田に到着すると一気に攻めかかった。
沼田城は沼田顕康を中心に、北条勢が守っておったが、顕康はワシの勢いにのまれて降伏致し、北条勢は退去したので、城は簡単に接収することが出来た。
つづいて厩橋城に向かうと、城主の長野藤九郎、彦七郎兄弟は戦わずに開城。ワシは此処を前線基地とし、付近の豪族の帰服を許した。この様子を見て、下総の古河にいた【関東公方】足利義氏は、小田原の北条氏康のもとへ逃走した。氏康の甥であり、当然反上杉派だったからだ。
関東公方というのは、管領の上にあって関東を統べる“関東の王”であったが、この頃は有名無実な存在となっていた。
有名無実なだけに暇があり、一面、快適な位置でもあった。ワシは2回目の上洛の折、交際の深かった関白近衛前嗣公をその座に据えることを約束していた。
「松隣夜話」では、前嗣公はこの時憲政公と一緒にワシと行動を共にしたと記しているが、前嗣公は一度越後に下り、それから厩橋城に来た。というのが定説である。
快勝を続け厩橋に入ったワシは、間髪居れずに早速上杉憲政公の旧幕下の諸将に激を飛ばして、参集を求めた。越後軍の威風に驚いた諸将は次第に参陣し始めた。
しかし小田原の北条氏康もこれを知って手をこまねいているはずはなく、長子の氏政に大兵を授けて下野の唐沢山城を囲みおった。城主の佐野周防守昌綱は、真っ先にワシのもとに馳せ参じた有力武将だったから、見せしめにしようとしたのであろう。<北条氏政三万をして佐野小太郎昌綱の橡木城を囲む。輝虎之を聞き、八千人を引具して、後詰せり>と「名将言行録」は言い、続いて次のように綴っている。
「御館様、唐沢山の城が危うくなりました」
「そうか。早くしないと間に合わぬな。城が落ちては援けに来た甲斐が無い。幸い、我が軍にはワシに劣らぬ侍大将が沢山いるゆえ、後詰の心配はない。ワシは先に城に入って周防守に力副えをいたそう」
後詰の兵を率いて着陣したワシはそう言って、甲冑も着けず、黒い木綿の道服ばかりを着、十文字の槍を横たえ、騎士23人(『佐野記』によると44人)を従えて城に向かって悠々と馬をうたせた。そして、氏政の本陣の前を通り城に入ったが、その人もなげな振る舞いに氏政の軍兵は恐れをなし<夜叉羅刹とは是なるべし>と言い合って近づくものはなかった。といわれている。
氏政は間もなく囲みを解き、兵を率いて退散した。相手がワシでは到底勝ち目が無いと思ったのだろう。ワシはこれを見て城門を開いて追撃したが、氏政は将兵を返して戦おうとはしなかった。
氏政の腑抜けぶりと、ワシの鬼人の如き戦いぶりは、たちまち関東中の評判になっていった。