KENSHIN STORY5

永禄4年閏3月16日。この日は32歳のワシにとって生涯最良の晴れの日となった。

この日、鎌倉・鶴岡八幡宮社前で、関白近衛前嗣公、前関東管領上杉憲政公他、ほとんどの関東諸将、幕下の将領などが出席して、ワシの関東管領就任式が行われたのだ。

そして、この式典は見られなくとも、せめて馬上のワシの姿だけでも見ようと、数万の兵や町人が長い参道に詰め掛けた。

この盛儀は、以後よほど世間に宣伝されたとみえ、多くの資料にワシの立ち振る舞いが記されており、成田長泰を打擲した事件なども綴られておる。

「上杉三代日記」「鎌倉管領九代記」「松隣夜話」「北条記」「甲陽軍艦」品第三十二などがそうじゃ。

例えばこうじゃ。


「謙信は先年将軍より許された網代の輿に乗り、梨地の槍と朱柄の傘を近臣に持たせ、緋毛氈の鞍覆いをした曳馬をひかせ、柿崎景家、斎藤朝信などの幕僚を従えてやってきて、境内の鳥居の前で輿を降りた。それから、静々と参道を歩いて行く。後に太刀を持った小幡三河守をはじめ、幕僚、諸将達が従った。

本社殿に至る石段は高くて長い。謙信はその石段を上って社殿に入った」

社殿では関白近衛前嗣公、上杉憲政公が威儀をただして正して並んでいる。謙信は神官の先導で社前に進み、深く拝礼して柏手をうった。

この時謙信から剣一振、馬一頭、黄金百枚を奉納する目録が読み上げられ、つづいて宮司が謙信の関東管領の補任を告げ、それを祝う祝詞が奏された。

終わって五人の神楽男が神楽を奏し、八人の清らかな巫女が古式に則る祝賀の舞を舞った。

神酒が杯につがれ、謙信はそれをうやうやしく飲み干した。さらに様々の儀式が行われ、神官達にも沢山の金銀衣帛が贈られた。

これで就任式は終わり、ついで上杉憲政公から、山内上杉の姓と政の一字が贈られた。謙信はこの時から長尾景虎あらため『上杉政虎』と名乗った。謙信は式が終わっても、この一代の盛儀にいまだ緊張がとけなかった。彼は社殿を出て、石段を降り、境内を抜けた。そして鳥居の前で今度は馬に乗り、鎌倉時代、北条政子が寄進した「段葛」という参道を静かに馬をうたせた。

その時、参道の脇で皆が拝礼するなかで、一人だけ下馬もせず馬上から謙信を見ている武将が目にとまった。これは小田原包囲戦にも参加した武蔵忍城主・成田下総守長泰であった。

下馬して拝礼するのが当然であるにも関わらず、その礼儀もつくさない長泰に謙信は異常に腹が立った。彼は馬を寄せて行って、「無礼であろう」と叫ぶが早いか、手に持っていた扇子で長泰の顔を打った。

長泰は関白藤原道長の後裔で、源家の征夷大将軍八幡太郎義家にたいしても、祖先は馬上から挨拶したという名誉の家門だった。

こうしたことから、この古例によって下馬しなかったのだが、謙信はそれを知らなかった。

衆人環視の中で顔を打たれては、長泰も我慢出来なかったのであろう、暇乞いなく忍城に帰ってしまった。長泰が兵を引き連れて居城に帰ったのを知った関東諸将は動揺し、長泰に倣って領国へ帰った者もあった。

北条氏康はこの機を見逃さず、全兵力をあげて反撃に出た。謙信は近衛前嗣公、上杉憲政とともに素早く上州へ引き揚げていた。そのため主将のいない彼の軍団は北条軍の執拗な追撃にあい、輜重部隊をはじめ、上杉軍は苦戦を強いられ厩橋城へ退却した。


と、まぁこんな感じで書かれておる。

ワシは帰国に先だって、厩橋城主に北条高広を命じ、古河城には新たに上杉藤氏を入れて公方とし、またこの城に近衛前嗣公、上杉憲政公の二人を残し、城主の簗田晴助に守護を命じた。そして6月24日、厩橋を後に越後に向かった。その後氏康と信玄とは関東でしばしば同陣し、我が方の城、北武蔵・松山城を落としおった。だが予が関東に出陣致すと、衝突しそうなところからは氏康も信玄も退きおったので、正面からの合戦はなかった。だが氏康はしだいに我が方の小豪族を滅ぼしてその領地を増やし、信玄もまた西上野を併合しおった。

ワシが関東に出陣したのは永禄3年から天正2年までに、前後12回。

だが結局は前管領上杉憲政公の領地、上野半国を回復したのみで新管領として関東諸国を統治する事は出来なかった。占領した土地に領国的政治を行わず、反上杉方の小田原北条氏康・氏政を押し込み、あるいは北条氏に属する諸将を破り屈伏させるだけで、そのまま越後に引き揚げたからである。

関東出馬は労のみ多く、ワシ自身の実利は一つも無かったのだ。

「諾」の一言は千金よりも重く、秩序回復の義を通した。そこに一片の私心も無かった。それゆえに不倶戴天の敵、北条氏康をして、「信玄と信長は表裏常なく、頼むに足りぬ。謙信だけは請けあったら骨になっても義理を通す人物だ。それ故その肌着を分けて若い大将の守袋にさせたい」(名将言語録)と言わしめたほどじゃ。

またワシは、一方でこの強敵からも信頼されておったようじゃな、武田信玄のことよ。

天正元年、信玄はその死に臨んで息子勝頼に、

「あんな勇猛な男と合戦をしてはならぬ。謙信は頼むとさえ言えば嫌とはいわぬ。頼むと言って差しつかえない武将である。謙信にすがって甲斐の国を保つようにせよ」(甲陽軍艦)

と申しておったそうじゃ。

参考引用文献「学研 歴史群像シリーズ⑧ 上杉謙信」
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