烈
都に旌旗をひるがえし天下に号令する…。
戦国の世に割拠した武将にとって、上洛は誰しもが夢に描いた大望であった。
破邪顕正の義戦を標榜したワシとて例外ではない。
だが、本格的な上洛の道は容易には開けなかった。東国には武田信玄、北条氏康があってワシを牽制。京都への道筋にあたる越中にも諸将や一向一揆勢が立ちはだかっていた。
しかも信玄の謀略の手は、それら諸将や一揆勢にも伸び、越中の攪乱が工作されていたのである。
ワシが越中へ初めて兵を進めたのは永禄3年(1560)の春。
信玄の誘いに乗った神保は一向宗と結び、松倉城へ攻めかけた。椎名の支援要請を受けたワシは3月26日、越中へ出兵、早くも30日に富山城を囲んだ。
越後の大軍を前に、なす術もなく逃れる神保を増山城へ追撃し囲む。ここでも抵抗らしい抵抗も出来ず、またしても夜陰にまぎれ脱出。馬や武具を残したまま、五箇山方面へ逃亡するありさまだった。
越中でのワシの緒戦は、あっけない勝利に終わった。僅かの間に神通川以東の主要部分を勢力下に収めた。しかしそのまま西進出来るような状況ではない。関東の戦雲が急を告げていたからだ。
ワシが関東を転戦しておるうちに時は流れて永禄11年(1568)3月、かつてワシに窮地を救われた椎名康胤が、こともあろうに反上杉の兵をあげたのだ。
その背景には信玄の巧妙な謀略工作があった。椎名と一向一揆を繋がらせ、越後北方の本庄城の本庄繁長にも誘い、ワシを挟撃させようと策したのである。
上杉家と椎名家は姻戚であり、加えて忘恩の行為。激怒したワシは、直ちに出撃。越中に入った我が軍は、松倉城、金山城、魚津城を一気に抜き、3月15日には神通川を渡って越中西部まで進出。翌16日に守山城の攻略に取りかかった。
守山城は越中三大城の一つで堅城。信玄の意を受けた、一向宗・勝興寺、瑞泉寺の支援もあり、城はなかなかに落ちない。
そうこうするうちの3月25日、「本庄繁長謀反」の急報がもたらされた。ワシの留守に乗じての事である。越後国内の造反分子の討伐が先決と、急ぎ陣を払い春日山に帰還致した。
信玄の目論見では、会津の蘆名氏家臣、小田切治部少輔、出羽大宝寺城の武藤義増らにも手を回し、椎名、本庄とともに、ワシを一挙に包囲殲滅する作戦だったようじゃ。l
が、小田切、武藤、結局動かず信玄自身の越後侵攻もならなかった為、哀れ本庄は孤立無援のまま本庄城に籠もり、翌永禄十二年(1569)3月まで持ちこたえたものの、遂にワシに降伏致した。
この年、6月9日には、ワシと北条氏康との間に越相同盟が正式に締結された。これで関東は一先ず安心。北陸平定、上洛の道確保の好機到来であった。
同年8月、ワシは椎名康胤を再び攻略すべく、急遽越中に兵を進めた。金山城を難なく攻略、次いで松倉城を囲んだ。堅城の松倉城、守備兵の意気も盛んで、一向一揆の支援もある。睨み合いは2か月にも及んだが、陥落させる事は出来ない。
そこで、ひとまず富山城周辺に転戦致すことにした。
ところが直後、「信玄・上野侵攻」の急報を受け、慌しく帰国した。その為、越中支配の根拠地として河田長親に守備させておった富山城も、間もなく椎名の手に帰してしまった。
かくして、元亀2年(1571)2月末、ワシはまたしても越中に進出。富山城を奪い返し、松倉城、新庄城など十数箇所の城砦を抜き、疾風怒濤の勢いで神通川を渡河、放生津に陣を張った。次いで守山城を抜き、更に進出しようとしたその時、またもや関東の戦雲に妨げられる。信玄の東海方面侵攻があり、北条氏政が後詰を要請してきたのである。
ワシの席は一刻たりとも温まる暇がない。越中に向かえば関東が、関東へ兵を出せば越中が…まさに東奔西走であった。しかも悪い事に、越相同盟が破棄され、相甲同盟が復活。二大勢力との対立の状況下で信玄の謀略は加賀の一向一揆にもしきりと伸びるようになる。
この一向一揆こそ、ワシの上洛を阻む最大の障害であった。
元亀3年(1572)に至って、一揆勢の攻勢は頂点に達した。信玄が上洛をするべく、ワシを北陸に釘づけにする為に手を回したのである。
まず、加賀の一揆勢が蜂起。怒涛の勢いで北陸道を東進、越中一揆勢と合流。6月に入って日宮城を包囲しおった。加賀一向一揆の支援のもとに、越中の国人すべてが立ち上がった一大攻勢である。
これに対し、小島職鎮、神保覚広等が日宮城を守ったが、雲霞の如く押し寄せる一揆勢に対抗出来る勢力ではない。この時ワシは、関東に遠征、常陸の佐竹義重、下総の結城晴朝らと対陣していたが、急ぎ和睦。早々に帰国し、直江景綱を先鋒として越中に派遣致した。
新庄城にあった河田、鯵坂らは直江の援軍を待たずに出撃するも、呉服山で敗退。一揆勢の追撃凄まじく、こうなっては日宮城救援どころではない。小島らは一揆勢を和議を結び開城。
たちまち神通川以西を制圧した一揆勢は更に富山城も陥落させる。対する河田、鯵坂らは新庄城に籠もり、一揆勢と睨みあうことになった。
ワシが自ら出馬したのは、戦線が膠着状態に陥っておった8月。新庄城に入り陣頭指揮をとった。両城の間にある尻垂坂の戦闘で勝利、ようやく富山城を落としたのは10月1日であった。18日には椎名も降伏、一揆勢との和議も翌年1月に結ばれた。
ワシの越中出兵の間隙をついて、信玄は遠江、三河に進出し、西上作戦を展開。しかしその信玄の大規模な軍事行動が、ワシと織田信長を急接近させ、元亀3年(1572)11月7日、両者同盟に相成る。
この同盟は信玄や一向一揆勢にとって、大きな脅威になったようである。一揆勢にとっては、ワシと信長に挟撃される恐れがあり、信玄にとっても西上作戦が大きく牽制されてしまうからだ。信玄は執拗に一揆勢の再蜂起を画策し、再び一揆勢と椎名が富山城を奪い、ワシはすかさず兵を返して富山城奪還、まさにイタチゴッコであった。
ワシを悩まし続ける一向一揆勢。それを煽動していた信玄が西上途中の4月12日、陣中に歿した。その情報をワシが掴んだのは4月の末頃であった。